うちゃむみぃ!

うちゃむみぃ!

月曜日の朝七時四十五分。

首都圏を貫く通勤快速・四号車の中は、人間の尊厳を圧縮機にかけて均質化したような、救いようのない空気に満ちていた。

外気温はすでに二十五度を超えているというのに、冷房は湿った生ぬるい人の熱気に押し負け、吊り革の金属パイプすらぬめり気を帯びている。

ドア付近に背中を押し付けられた僕――大洋文具株式会社・営業二課の草野大樹(くさの・たいき、二十六歳)は、両腕を胸の前で小さく交差させ、肋骨にかかる圧力を逃すことだけに全神経を注いでいた。

誰かの濡れた傘の先が革靴の甲に突き刺さり、左隣の青年のスマートフォンの角が容赦なく僕の脇腹を小突く。

ため息と舌打ちのノイズキャンセリングのために耳へねじ込んだワイヤレスイヤホンからは、重苦しい週初めのニュースがただ無機質に流れていた。

そのときだった。

「うちゃむみぃ!」

耳元で、世界の亀裂が弾けたような音がした。 金属がきしむような甲高い響きと、赤ん坊のくしゃみを混ぜ合わせ、さらにそれを電子レンジで半解凍にしたような、絶望的に気の抜けた、脱力感の塊のような音。

周囲の空気がピキリと凍りついた。

新聞を極小に折りたたんでいた老紳士の手が止まり、単語帳を睨みつけていた女子高生がまつ毛を跳ね上げる。

ぎゅうぎゅう詰めの乗客たちが、一斉にぎょっとして視線を泳がせた。

音の発生源は、吊り革を握る僕の安物のスーツ、その右ポケットだった。

(……あ、嘘だろ)

胃の底がすうっと冷たくなった。 今朝がたの光景が、走馬灯のように脳裏をよぎる。

午前七時十分。アパートのドアを開けた瞬間、冷たいコンクリートのたたきに、白い雑巾のようなものが転がっていたのだ。

ゴミかと思って跨ごうとしたら、微かに震えていた。

掌にすっぽり収まるほどのサイズ。純白の毛に覆われていて、異常なほど弾力がある。

頭部らしき場所から二本の耳のような突起が生えているから、シルエットだけ見ればウサギに近い。

しかし、鼻も口も見当たらず、ただ黒ごまを二粒落としたような、つぶらな瞳が中央に寄り添うように並んでいるだけだった。

息も絶え絶えに「……み……」と震えるその謎の毛玉を、僕は見捨てることができなかった。

かといって部屋に戻って看病する時間もない。

遅刻すれば課長にネチネチと一時間説教される。

結果として僕は、「とりあえず夜まで持てばいい」と、コートの代わりに羽織ったジャケットのポケットへそれを雑に放り込み、駅へとダッシュしたのだった。

すっかり忘れていた。完全に。

「うちゃむみぃ!」

二度目の鳴き声が、ぎゅうぎゅう詰めの静寂を無惨に切り裂いた。

今度は先ほどよりも声量が増している。僕の右太もものあたりが、まるでスピーカーのウーファーのように小刻みに振動した。

「おい、君」

すぐ隣から、氷点下の声が降ってきた。

見上げると、銀縁眼鏡を眉間に食い込ませた、絵に描いたような中間管理職風の男性が立っていた。

きっちりと結ばれたペイズリー柄のネクタイ、寸分の狂いもなく糊のきいたワイシャツ。

今期達成率を毎日Excelのピボットテーブルで監視していそうな、神経の細そうな男性である。

男性の鋭利な視線が、僕の右ポケットを貫通せんばかりに突き刺さっていた。

「なんだね、今の音は。生き物でも持ち込んでいるのか? ここは通勤電車だぞ。規則を知らんのか」 「あ、いえ! 違います、決してそんな!」

僕は裏返りそうな声を必死に抑え、脂汗を滲ませながら口から出まかせを並べた。

「これは……その、最新の、ええと、海外で流行しているマインドフルネス系ガジェットの通知音でして! 心拍数が上がると、自動でリラックス音を鳴らして副交感神経を優位にするという、いわばおもちゃです! 誤作動です、すぐ切ります!」

言い訳を機関銃のように吐き出しながら、僕はポケットの中に右手をねじ込んだ。

頼むから黙ってくれ。

ここでカバンを開けさせられたり駅員を呼ばれたりしたら、今日の十時からの新商品サンプルの納品に間に合わない。

社内での僕の評価はただでさえ「空気の読めない地味な奴」なのに、それに「電車に毛玉を持ち込む不審者」という致命的な肩書が加わってしまう。

掌が毛玉に触れた。

「ひゃっ」

と声が出そうになった。

今朝触れたときの冷たさはどこへやら、指先からじわりと伝わってきたのは、途方もない温もりだった。

それは、真冬の雨の日に駆け込んだ銭湯の湯気のような。

あるいは、焼きたての食パンの白い部分に顔をうずめたときのような。

母の膝枕で微睡んでいた、幼い頃の日曜日の午後を丸ごと凝縮したような、脳髄が溶け出すほどの強烈な安心感。

(な、なんだこれ……あったかい……)

僕の焦燥感が、その熱に触れた瞬間に急速に融解していく。

しかし、毛玉のほうは僕の都合など知ったことではなかった。

ポケットの中でモチモチと形を変え、僕の指の隙間をスライムのようにすり抜けると、スーツのポケット口から、ズゾゾ……と這い出してきたのだ。

「あ、コラ、待てっ……!」

「うちゃ?」

満員電車の密閉された灰色の空間に、純白のモチモチした物体が、ぬるりと顔を出した。

朝日を反射して毛並みが淡く発光しているようにすら見える。

二つのつぶらな黒い瞳が、瞬きもせずに、僕を睨みつけていた銀縁眼鏡の男性を見上げた。

男性の表情が固まった。 「な、なんだそれは……! ネズミか!? おい、離せ、近寄るな!」

男性が叫び、身を引こうとしたが、満員電車である。

一ミリたりとも下がる隙間などない。

毛玉は、男性の拒絶などまるで意に介さず、小さな二本の耳をピクピクと動かした。

そして――

ボヨン。

ゴムまりのような音を立てて僕のポケットから跳躍すると、男性の胸元、ちょうどネクタイの結び目のあたりに、まるで吸盤のようにペタリとしがみついた。

「ひっ……!?」

男性が喉の奥で悲鳴を上げた瞬間、毛玉は胸をめいっぱい膨らませた。

口があるのかどうかも分からない純白の表面が、風船のように丸く膨張する。

そして、至近距離から解き放たれた。

「うちゃむみぃーーーーーーーーっ!!!」

鼓膜を突き破るような大音量。

しかしそれは決して不快な爆音ではなく、全波長の癒やし成分を含んだ音響兵器のような波動だった。

男性の瞳孔が、カッと見開かれた。

次の瞬間、男性の全身から、まるで空気の抜けた風船のように「フッ」と力が抜けた。

吊り革を引きちぎらんばかりに握りしめていた白蠟のような指先が、だらりと解ける。

額に刻まれていた三本の深い縦皺が、アイロンをかけたように綺麗に消え去っていった。

「あ……れ……?」

男性の口から、掠れた声が漏れ出た。

「なんだか……今期の売上ノルマとか……どうでもよくなってきたな……。そもそも、売上って何のために伸ばすんだっけ……? 人間、生きて息をして、ご飯が美味しければ、それで百点満点なんじゃないか……?」

「ちょ、部長!? しっかりしてください部長! 今日、役員報告ですよ!?」

斜め後ろにいた、同じ会社の部下らしきスーツ姿の青年が血相を変えて割って入ろうとした。

しかし、毛玉の仕事は早かった。

男性の胸元を足場にして、ポヨヨンと身軽に宙を舞うと、今度は慌てふためく青年の右肩へと着地したのだ。

「うちゃむみぃ!」

「うわっ!? ……あ……えっ、なにこれ……?」

青年の叫びが、急速にトーンダウンした。

「柔らかい……あったかい……。この匂い、実家の押し入れの匂いだ……。そういえば、最後に実家に帰ったのいつだっけ……。母さん、膝が痛いって言ってたな……。電話、一本もかけてないや……。母さん……うっ、ううっ……」

青年の切れ長の目から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ち、床へと染みを作っていった。

そこからの四号車は、もはや現代日本の光景ではなかった。

毛玉は重力を無視したような軌道で、乗客たちの頭、肩、抱えられたビジネスバッグの上を、ポン、ポヨン、とリバウンドしながら跳ね回った。

接触するたびに、極上のモチのような感触と謎の波動を叩き込んでいく。

「うちゃむみぃ!」

女子高生の頭頂部に着地。

「キャッ……ふふっ、なんかどうでもいいや。赤点取っても死ぬわけじゃないし! 帰りにクレープ食べよ!」

「うちゃむみぃ!」

新聞を握りしめていた老紳士の腕に着地。

「おやおや……若い頃は、もっと青空を見上げて生きていたはずなんじゃがな……。ふぉふぉ、たまには途中下車して散歩でもするかね」

「うちゃむみぃ!」

仏頂面で腕組みをしていた筋骨隆々の作業着の男性の肩に着地。

「……可愛い……持ち帰りたい……猫缶でいいのかな……ちゅーる食べるかな……」

「うちゃむみぃ!」

「うちゃむみぃ!」

殺伐とした満員電車の空気は、わずか一分足らずで完全に変質してしまった。

車内に充満していた「他人を押し退けてでも前へ出たい」というトゲトゲしい敵意が、春の陽だまりでとろけた水飴のように、ねっとりと甘く、優しい連帯感へと上書きされていく。

周囲を見渡せば、誰も彼もがふにゃふにゃと目尻を下げ、隣の人の足を踏んでしまっても

「あ、ごめんなさい」

「いえいえ、私の足がそこにあったのが悪いですから」

と微笑み合っている。

地獄の通勤快速が、突如として極楽浄土の護送車と化したのだ。

やがて、ガタゴトと車輪がきしむ音が変わり、電車が駅のホームへと滑り込んだ。

プシューッという減圧音とともに、四号車のドアが左右に開く。

毛玉は満足げに車内をひと巡りすると、最後は美しい放物線を描いて僕の元へと飛んできた。

僕の肩にトンと着地し、何事もなかったかのようにすり寄ってくると、「みぃ……」と小さく吐息をもらして、再び僕のスーツのポケットの中へと滑り込んでいった。

ホームへ吐き出されていく乗客たちの顔には、さっきまでの青白い疲労の色はどこにもなかった。

「どうぞ」

「お先に降りてください」

「いえいえ、あなたからどうぞ」

信じられないほどの譲り合いの精神が発揮され、かつてないほどスムーズに人の波がホームへと流れていく。

僕の横を通り過ぎたあの銀縁眼鏡の部長も、どこか憑き物が落ちたような穏やかな、仏像のような微笑みを浮かべながら改札への階段を上がっていった。

プラットホームの生温かい風が、僕の乱れた前髪を揺らした。

右ポケットに手を伸ばすと、底の方で、まん丸くなった毛玉がトクン、トクンと微かな鼓動を刻んでいた。

指先で突くと、小さな耳が二本、誇らしげにピコピコと揺れる。

「……お前、一体なんなんだよ」

僕が呆然と呟いた言葉は、通勤ラッシュの発車メロディにかき消された。

時計の針は八時五分。

いつもなら胃の痛みに耐えながら迎える月曜日の朝が、今日だけは、信じられないほどあたたかかった。

――けれど、僕の胸にはもう一つの、極めて現実的な問題が持ち上がっていた。

この毛玉を連れたまま、僕はこれから、あの鬼のように厳しい営業二課のオフィスへ出社しなければならないのだ。


改札を抜けて地上に出ると、十月の朝の冷気が、火照った僕の頬を撫でた。

しかし、僕の右ポケットだけは、まるで小型の炊飯器でも仕込んでいるかのようにホカホカと温かい。

歩幅に合わせて、ポケットの底で何かが

「ぽよん、ぽよん」

と小刻みに揺れていた。

手を入れてみると、毛玉は僕の人差し指を両耳でぎゅっと挟み込み、熟睡しているのか

「すぴ……すぴ……」

と微小な寝息を立てている。

「おい、頼むから会社では静かにしてくれよ……」

僕――草野大樹の呟きは、オフィス街を急ぎ足で行き交うサラリーマンたちの革靴の音に吸い込まれて消えた。

大洋文具株式会社の自社ビルは、駅から徒歩八分。

ガラス張りの立派な外観とは裏腹に、僕が所属する営業二課のフロアは、年中無休で重苦しいプレッシャーの霧が立ち込めている。

その元凶が、課長の鬼頭(きとう)だった。

鬼頭課長は「数字が人格」「気合が足りないから契約が取れない」を地で行く昭和の化石のような上司で、毎朝八時四十五分の朝礼は、彼による吊るし上げの独壇場と化していた。

特に先週、大口の文具チェーンとの商談で競合に敗れた僕は、今週の朝礼で確実に公開処刑されるターゲットに指定されている。

エレベーターホールで鏡を見た。

僕のスーツの右ポケットは、明らかに不自然にモッコリと膨らんでいる。

まるでソフトボールを無理やりねじ込んだかのようだ。

僕はジャケットのボタンをきっちり留め、カバンを右脇に抱えるようにしてポケットの膨らみを隠した。

「おはようございます……」

フロアの自動ドアをくぐると、いつものどんよりとした空気が肺を満たした。

同期の松井が、死んだ魚のような目でエナジードリンクを胃に流し込んでいる。

隣のデスクでは、先輩の結城さんが頭痛薬を水で流し込んでいた。

誰もがこれから始まる朝礼に怯え、胃薬を握りしめている。

席に着き、パソコンを立ち上げると、右ポケットの毛玉がモゾモゾと動き出した。

僕は引き出しの陰でポケットに指を差し込み、背中をトントンと優しく叩いた。

(いい子だから、頼むから眠っていてくれ……)

僕の祈りも虚しく、時計の針が無情にも八時四十五分を指した。

「おい、時間だ。全員集まれ!」

課長の鬼頭の怒声がフロアに響き渡った。

身長百八十センチ、恰幅のいい体に角刈り、常に眉間に深いシワを刻み、鋭い眼光で部下を威圧する男。

鬼頭が立ち上がっただけで、営業二課の室温が二度下がったような錯覚に陥る。

課員十数名が、直立不動で鬼頭のデスクの前に半円を描いて並んだ。

僕も列の端、なるべく鬼頭の視界に入らない位置に立ち、右ポケットを必死に手で押さえた。

「今週はクォーターの締めだ。目標未達の奴は、分かってるな?」

鬼頭がバインダーで自分の手のひらをバシバシと叩きながら、一人ひとりを睨みつける。

「特に草野!」

ビクッ、と僕の肩が跳ねた。

「お前だお前! 丸菱堂の案件、競合に取られたそうじゃないか。理由は何だ? プレゼン資料の詰めが甘いんだよ。気合が足りん! 営業はな、顧客の懐に飛び込んで、泥水をすする覚悟で……」

鬼頭の説教が最高潮に達し、唾が飛び散ったその瞬間だった。

僕のポケットの中で、何かが「ピクン」と跳ねた。

まずい、と思った時にはもう遅かった。

「うちゃむみぃ!」

静まり返ったオフィスに、あの気の抜けた、世界の全てを無力化するような鳴き声が炸裂した。

「……あ?」

鬼頭の怒声がピタリと止まった。

課員たちの視線が一斉に泳ぎ、そして僕の右ポケットへと集まる。

松井が信じられないものを見る目で僕を凝視し、結城さんが

「草野くん、それ何の音……?」

と口パクで聞いてくる。

「草野……貴様、人の話の最中にふざけた通知音を鳴らしてんじゃねえぞ。マナーモードにしてないのか!?」

「も、申し訳ありません! すぐ切ります、切りますので……!」

僕はポケットに手を突っ込み、毛玉を無理やり押し込もうとした。

しかし、毛玉は「邪魔すんな」とばかりに僕の手首をするりとすり抜け、ポケットの縁に二本の小さな前足(らしき突起)を引っかけた。

そして、ひょっこりと顔を出したのだ。

蛍光灯の光を浴びて、純白のモチモチした球体が、オフィスのど真ん中に姿を現す。

つぶらな二つの黒い瞳が、怒髪天を衝く鬼頭課長を、じーーーっと見つめ返した。

「……うちゃ?」

フロアが静寂に包まれた。

誰かのボールペンがカランと床に落ちる音が、異様に大きく響く。

「な……なんだそれは……!?」

鬼頭の顔が怒りで赤黒く染まり、血管が額に浮き出た。

「会社に……会社にペットを持ち込んだのか!? 貴様、社会人を舐めてるのか! クビだ! 今すぐそんな薄汚いネズミを叩き出せ!!」

鬼頭の怒声が天井を震わせ、大きな手が僕のポケットの毛玉めがけて振り下ろされた。

その刹那。

ボヨンッ!

毛玉は驚くべき脚力で、僕のポケットから跳躍した。

放物線を描いて飛んだ先は、振り下ろされた鬼頭の手のひら――ではなく、鬼頭のテカテカと光る頭頂部だった。

パスッ、と、ちょうどいい座布団に座るような湿り気のある音がした。

鬼頭の角刈りの真上に、純白のモチが鎮座している。

「なっ……降りろ! 取れ、草野! 早く取れぇっ!」

鬼頭が激しく頭を振り、両手を振り回して暴れた。

しかし、毛玉は微動だにしない。まるで頭皮に吸盤で貼り付いているかのように安定している。

そして、毛玉は大きく息を吸い込んだ。

真っ白な体が、プクーッと二倍近くに膨らみ――

「うちゃむみぃーーーーーーーーーーっっっ!!!」

満員電車で放たれたものを遥かに凌駕する、超高密度の脱力波動が、鬼頭の頭頂部からダイレクトに脳天へと叩き込まれた。

「ぶふっ……!?」

鬼頭の動きが、コマ送りのように止まった。

振り上げられていた両手が、脱力してダランと垂れ下がる。

怒りで真っ赤だった顔から急速に血の気が引き、代わりに、春の野に咲くタンポポのような、底抜けに無害な笑みが浮かび上がった。

バインダーが手からすり抜け、パサッと床に落ちる。

鬼頭はふらふらと自分のデスクに戻ると、椅子に深く腰掛け、椅子の背もたれに体を預けて天井を仰いだ。

「……ノルマって……なんだろうねぇ……」

課員全員が凍りついた。

あの「歩くパワハラ」と呼ばれた鬼頭課長から、今まで聞いたこともないような、お釈迦様のような優しい声が出たのだ。

「課、課長……?」

松井が恐る恐る声をかける。

「松井くん……君、毎朝早くからエナジードリンクなんか飲んで、体が心配だよ……。いいんだよ、今日はもう帰って、寝なさい……。人間、睡眠が一番大切なんだから……」

「は、はい……!?」

「結城さんも……頭痛いんでしょ? 無理しちゃダメだよぉ。数字なんてね、紙の上のインクの染みに過ぎないんだから……。それよりさ、みんなで屋上でお弁当食べない? 空、青いよ……?」

鬼頭の目からは、一筋の清らかな涙がツゥーと頬を伝っていた。

頭の上では、毛玉が満足そうに

「みぃ……」

と鳴いて、耳をパタパタと揺らしている。

オフィスの空気が、音を立てて崩壊した。

「課長が……壊れた……!?」

「いや、解脱したんだ……!」

「草野、お前その神様みたいな毛玉、どこで拾ってきたんだよ!?」

同僚たちが驚愕と歓喜の入り混じった表情で僕を取り囲む。

先ほどまで胃痛に苦しんでいたフロアは、一瞬にして、昼休みの公園のような平和な空気に包まれてしまった。

だが、僕は安堵するどころか、背筋に冷や汗が流れるのを感じていた。

鬼頭課長の頭の上で、毛玉がくるりと体の向きを変えたのだ。

そのつぶらな黒い瞳の先――

ガラス張りのフロアの向こうから、重役専用のエレベーターのドアが開き、取り巻きの役員たちを従えた「専務」の姿が見えた。

社内最恐と恐れられ、業績の悪い部署を容赦なく統廃合することで知られる、冷徹な合理主義者・黒崎専務だ。

毛玉が、小さく

「うちゃ?」

と首を傾げた。

そして、再びその体をプクプクと膨らませ始めたのだ。

(ま、まずい……! 専務にまであれをやったら、営業二課ごと吹き飛ぶぞ……!)

僕の悲痛な思いは、果たしてこの謎の毛玉に届くのだろうか。


「待て! ストップ! うちゃむみぃ、ステイだ!!」

僕の叫びは、虚しくオフィスの天井に吸い込まれた。

ボヨンッ。

毛玉は鬼頭課長の頭をトランポリンのように蹴り上げると、低空飛行でガラス張りのエントランスへと一直線に射出された。

「ひぃっ、草野、何が飛んだんだ!?」

取り巻きの部長たちを引き連れ、手元のタブレットで今期の営業利益グラフを睨みつけていた黒崎専務――社内随一の冷徹なコストカッターであり、「数字を出せない社員は減価償却の終わった机と同じだ」と言い放つ男が、鋭い視線を跳ね上げた。

その冷酷な眉間に、毛玉はダイブした。

ペタリ。

吸盤のような音がして、専務の端正な鼻筋に、純白のモチが張り付いた。

「な……ッ!? な、何だ貴様は……無礼な、警備員を――」

「うちゃむみぃーーーーーーーーーーっっっ!!!」

至近距離。ゼロ距離射撃だった。

オフィス中の窓ガラスが微かにビリビリと共鳴するほどの、極大の脱力波。

専務の言葉がぴたりと止まった。

瞳の奥から青白い計算の光がスッと消え、代わりに、夕暮れの河原で拾った小石を見つめるような、果てしなく無垢な光が宿った。

カラン……。

専務の手から、百万円以上する超軽量チタン製ノートPCが滑り落ち、フロアのカーペットに転がった。

「専務!?」

「おい、大丈夫ですか専務!」

取り乱す役員たちをよそに、黒崎専務はふらふらとその場にぺたんとあぐらをかいた。

そして、鼻に乗っかったままの毛玉を両手で優しく包み込み、まるで生まれたばかりの我が子を見るような慈愛に満ちた目で頬をすり寄せたのだ。

「……あたたかい……」

専務の口から、掠れた、しかし柔らかな声が漏れた。

「私はね……本当は……絵本作家になりたかったんだよ……。数字を削るために生まれてきたんじゃない……子どもたちに、夢を配りたかったんだ……。ああ、忘れていたよ……シロツメクサの匂いを……」

「せ、専務が幼少期のトラウマを自ら開示し始めたぞ!?」

「取り巻きの役員も全員座り込んだ! なんかみんなで手を繋いで童謡歌い始めたぞ!」

営業フロアは完全に崩壊した。

いや、崩壊というよりは、極楽浄土の幼稚園に変貌していた。

怒号と舌打ちが飛び交っていたはずの空間で、鬼頭課長はデスクの花瓶に水をやりながら

「草野くん、お茶淹れてあげようか?」

と微笑み、黒崎専務は部下たちを集めて「クマのプーさんの素晴らしさ」について穏やかに語り合っている。

毛玉――「うちゃむみぃ」は、専務の膝の上で誇らしげに小さな耳をピコピコと揺らし、僕に向かって

「みぃ」

と短く鳴いた。

まるで、「これでいいんだろ?」とでも言いたげに。

その日、大洋文具の営業二課は、歴史上かつてない「業務進捗ゼロ」を記録した。

しかし誰一人として怒る者はおらず、定時である十七時半になった瞬間、全員が満面の笑顔で

「お疲れ様でした!」

「明日も元気に生きましょうね!」

と言い合って退社していった。

僕の右ポケットには、またすっかり眠りこけた毛玉が収まっていた。

掌で包み込むと、温かい。

けれど――その時、僕はほんの少しだけ違和感を覚えた。

今朝、満員電車で触れた時よりも。

鬼頭課長の頭に乗っていた時よりも。

毛玉の体が、ほんのわずかに、小さくなっているような気がしたのだ。

気のせいだろうか。

それとも、あの鳴き声を放つたびに、こいつは何かを――。

帰り道、夕焼けに染まる街を歩きながら、僕はコンビニでプリンと牛乳を買った。

何が好きかも分からないけれど、とりあえず甘いものでも食べさせてやりたかった。

アパートに帰り着いた僕は、机の上にタオルを敷き、その上に毛玉をそっと乗せた。

「おい、起きろよ。晩飯だぞ」

突っつくと、毛玉は

「みぃ……」

と頼りなげに身悶えし、ゆっくりと目を開けた。

だが、そのつぶらな黒い瞳には、朝のような輝きが少しだけ陰っているように見えた。


机の上の白い毛玉は、差し出されたスプーンの先のプリンを、小さな二本の耳でペチペチと触れるだけで、口に運ぼうとはしなかった。

ただ、僕の指先に体をすり寄せ、か細く

「みぃ……」

と喉を鳴らす。 その温もりは相変わらず優しかったが、朝にポケットへ入れた時よりも、確実に軽くなっていた。

テニスボールほどあったはずの丸い体は、いまやゴルフボール二つ分ほどに縮んでいる。

胸の奥に、冷たいざわめきが広がった。

僕はスマートフォンを取り出し、画面をタップした。

「毛玉 白い うちゃむみぃ」

「脱力 癒やし 生物」。

検索結果に出てくるのは、都市伝説の掲示板や、古びた民間伝承をまとめた個人のブログばかりだった。

スクロールを続ける指が、ある古い郷土史の記述で止まった。

『憂晴(うばらし)の玉』 人の抱える重き憂い、怒り、張り詰めたる気を吸い取りて糧とする怪異あり。 姿は白き綿の如く、鳴きて人の心をほどく。 されど、吸い取れる澱(おり)は自らの身を内より削り、消滅へと至らしむ。 人の痛みを肩代わりするごとにその身を縮め、尽きるときには一筋の温かき煙となりて霧散す。

「……身を、削る……?」

声が震えた。 満員電車の乗客たちの殺伐とした空気。

鬼頭課長の怒号とプレッシャー。 黒崎専務の張り詰めた冷徹さ。

あいつが「うちゃむみぃ」と叫び、みんなの心をふわりと解き放つたびに、僕たちは救われていた。

けれどそれは奇跡の魔法なんかじゃなくて、あいつが他人の毒や痛みを、小さな体ひとつで全部引き受けていたからだったのか。

「お前……」

僕は机の上の毛玉を見つめた。

今朝、玄関先で行き倒れていた理由が、急に腑に落ちた。

昨日の夜、僕はこの部屋で一人、頭を抱えて泣いていたのだ。

丸菱堂のコンペに落ち、課長に怒鳴られ、自分の無能さに押しつぶされそうになって、「消えてしまいたい」と枕に顔を押し付けていた。

僕の部屋のドアの外に、あいつが倒れていたのは偶然じゃない。

あいつは僕が垂れ流した、泥のような絶望の気配に引き寄せられてやってきたのだ。

「僕のせいで、お前は……」

僕が指先を伸ばすと、毛玉は嬉しそうにモチモチと形を変え、僕の掌の上に這い登ってきた。

そして、僕の親指の付け根に頬を寄せると、微かに、誇らしげに小さな耳を揺らした。

まるで、

「もう泣かないで」

と伝えてくるみたいに。


――それから三日間、僕は毛玉を外に出さなかった。

スーツのポケットには入れず、部屋の中で一番柔らかいバスタオルを敷いたカゴの中に寝かせ、仕事が終わると寄り道もせずに真っ直ぐアパートへ帰った。

オフィスでは奇跡的に平和な空気が続いていた。

鬼頭課長は怒鳴ることをやめ、黒崎専務の指示で営業二課のノルマは見直され、定時退社が推奨されるようになった。

毛玉が遺した「脱力」の余波は、確かに会社を変えていた。

けれど、部屋の毛玉は日に日に小さくなっていった。

何も食べず、ただ静かに丸まり、僕が帰宅して手を差し伸べると、最後の力を振り絞るように「みぃ」と短く鳴くだけ。

もう、ピンポン玉ほどの大きさしかなかった。

木曜日の夜。 季節外れの冷たい雨が、窓ガラスを叩いていた。

カゴの中を覗き込むと、毛玉の呼吸がひどく浅くなっていた。

純白だった毛並みは透明感を帯び、今にも空気の中に溶け出してしまいそうだった。

「おい……起きてくれよ……」

僕の両手で包み込んでも、ほとんど重みを感じない。

温もりだけが、かすかに、消え入りそうなロウソクの炎のように残っている。

「もういいんだよ。誰も怒ってないし、僕ももう大丈夫だから。だから、もう誰も助けなくていいから……!」

ポタ、と、僕の目からこぼれた涙が、毛玉の背中に落ちた。

その瞬間だった。

僕の涙を吸い込んだ毛玉が、ピクンと身じろぎをした。

弱々しく開いた二つの黒い瞳が、涙を流す僕の顔をじっと見上げる。

「うちゃ……?」

「泣いてない。泣いてないよ……」

僕は袖で目を擦った。「お前がいなくなったら、寂しいだろ……」

僕の胸の奥から溢れ出る、後悔と、悲しみと、喪失への怯え。 その感情を、毛玉は見逃さなかった。

毛玉が、最後の力で僕の掌の上に立ち上がった。

足なんてないはずなのに、確かにピンと背筋を伸ばし、僕の胸元――心臓のあたりを見つめた。

「やめろ……もう鳴くな! それ以上やったら、お前本当に消えちゃうんだろ!?」

僕が両手で包み込もうとした瞬間、毛玉はふわりと宙に浮いた。

重力を失ったタンポポの綿毛のように、優しく、静かに僕の胸の真ん中へと飛び込んできた。

ペタリ。 ワイシャツ越しに、信じられないほどあたたかい熱が心臓へと染み渡る。

毛玉は、その小さな体を目一杯に膨らませた。

透き通るような白い体が、淡い光を放ちながら、限界まで丸く膨張していく。

そして――

部屋いっぱいに、僕の人生で一番美しくて、一番気の抜けた声が響き渡った。

「うちゃむみぃーーーーーーーーーーーーー……」

それは叫びではなく、まるで僕の胸の痛みをすべて包み込んで、遠くへと連れ去っていくような、長くて優しい子守唄だった。

胸の奥が、カッと熱くなった。

自分がどれほど孤独だったか。

どれほど誰かに「大丈夫だ」と言ってほしかったか。

張り詰めていた糸がプツンと切れ、涙が滝のように溢れ出した。

けれど、それは苦しい涙ではなく、体の芯から澱(おり)が洗い流されていくような、どこまでも清らかな涙だった。

胸元の光が、ゆっくりと収まっていく。

光が消えたとき、僕のワイシャツの上には、もう何もいなかった。

毛玉の重みも、柔らかな感触も、綺麗さっぱり消え去っていた。

ただ、掌の上には、一粒の小さな綿毛のような毛が、一本だけ残されていた。

そして部屋の中には、焼きたてのパンのような、お日様に干したタオルのような、愛おしい温もりだけが静かに満ちていた。

「……ありがとう」

僕は胸に手を当てて、静かに呟いた。

心臓の鼓動が、トクン、トクンと、力強く脈打っていた。

あいつが吸い取ってくれた悲しみの代わりに、胸の奥には、二度と消えないあたたかな火が灯っていた。

――翌朝、金曜日の七時四十五分。 僕は再び、満員電車の四号車に揺られていた。

相変わらず人はすし詰めで、湿った空気が漂い、誰かの足が僕の靴を踏みつける。

けれど、僕の心はもう、押し潰されそうにはならなかった。

吊り革に掴まる僕の隣で、若い青年が、今にも泣き出しそうな顔でスマートフォンを握りしめていた。

きっと、かつての僕と同じように、重圧と孤独に押し潰されそうになっているのだろう。

僕はスーツの右ポケットに手を入れた。

そこにはもう、モチモチした毛玉はいない。

けれど、指先には、あの時残された一本の柔らかな綿毛が触れていた。

ポケットから手を引き抜いた僕は、ほんの少しだけ体をずらし、青年に寄りかかっていた隣の人の圧力を背中で受け止めて、彼のためのわずかな隙間を作ってやった。

青年が驚いたように顔を上げ、僕を見る。

僕は、少し照れくさそうに、ふわりと笑いかけた。

「どうぞ。狭いですけど」

青年は目を丸くしたあと、張り詰めていた肩の力をスッと抜き、小さく頭を下げた。

「……ありがとうございます」

電車の窓から、眩しい朝の光が差し込んでくる。

ポケットの奥で、そんな僕の心臓の音に合わせるように、小さな、気の抜けた声が微かに木霊(こだま)した気がした。

――うちゃむみぃ。

大丈夫。

僕たちは今日も、ちゃんと生きていける。

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