うちゃむみぃ!

うちゃむみぃ!

月曜日の朝七時四十五分。満員電車の四号車、ドア付近のすし詰め地獄の中で、それは唐突に鳴り響いた。

「うちゃむみぃ!」

金属がきしむような甲高い響きと、赤ん坊のくしゃみを混ぜ合わせたような、あまりにも気の抜けた音。スマホの着信音でも、誰かの悲鳴でもない。吊り革にぶら下がる会社員たちも、英単語帳を開いていた高校生も、一斉にぎょっとして視線を泳がせた。

音の発生源は、吊り革を握る僕のスーツの右ポケットだった。

僕――冴えない文具メーカー営業二課の草野は、血の気が引くのを感じながらポケットへ手を突っ込んだ。指先に触れたのは、今朝がた自宅の玄関先で行き倒れていた、謎の毛玉だった。

掌に収まるほどのサイズで、白くて、異常なほど弾力がある。耳が二本生えているからウサギのようにも見えるが、鼻も口も見当たらない。ただ、つぶらな黒い瞳が二つ、中央に寄り添うように並んでいるだけの生き物。息も絶え絶えだったため、放っておけずにポケットへ放り込んできたのを完全に忘れていた。

「うちゃむみぃ!」

二度目の鳴き声が、ぎゅうぎゅう詰めの静寂を切り裂いた。隣に立っていた、いかにも神経質そうな眼鏡の課長クラスの男性が眉をひそめ、僕のポケットを睨みつけてくる。

「君、なんだね今の音は。生き物でも入れているのか?」 「あ、いえ! これは……その、最新の、ええと、癒やし系ガジェットの通知音でして……」

苦し紛れの嘘をつきながら、僕はポケットの中で毛玉の頭をそっと撫でた。頼むから黙ってくれ、と念じながら。

すると、指先からじわりと不思議な温もりが伝わってきた。それはまるで、湯上がりのバスタオルに顔を埋めたときのような、あるいは子どもの頃に食べた焼きたてのパンのような、途方もない安心感だった。

ポケットの中で、毛玉がぐにゅりと形を変えた。そして、指の隙間をすり抜け、スーツの隙間からひょこっと顔を出したのだ。

満員電車の張り詰めた空気の中に、純白のモチモチした物体が姿を現す。 黒目がちな瞳が、隣の神経質そうな男性をじっと見上げた。

「……うちゃ?」

男性の口元が引きつった。「な、なんだそれは……!」と声を荒らげようとした瞬間、毛玉がポケットからピョンと跳ね、男性の胸元――ちょうどネクタイの結び目のあたりにしがみついた。

そして、信じられないほど大きな声で叫んだ。

「うちゃむみぃーーーっ!」

その瞬間、男性の全身からフッと力が抜けた。吊り革を握りしめて白くなっていた指先が緩み、眉間の深い皺がすうっと消えていく。

「あ……れ……? なんだか、今期のノルマとか、どうでもよくなってきたな……」 「ちょ、部長!?」

斜め後ろにいた部下らしき青年が慌てたが、毛玉は今度はその青年の肩へとポヨヨンと飛び移った。

「うちゃむみぃ!」

「うわっ……なにこれ、柔らかい……実家の猫を思い出す……母さん、元気かな……」

青年の目から、ツーと涙がこぼれ落ちた。連鎖するように、毛玉は乗客の頭や肩をポンポンとリバウンドしながら跳ね回った。つり革にぶら下がる人々の間を弾むたび、「うちゃむみぃ!」という気の抜けた鳴き声が車内に響き渡る。

「うちゃむみぃ!」 「ふふっ、満員電車なのに、なんか全然イライラしない……」 「うちゃむみぃ!」 「今日のプレゼン、失敗しても死ぬわけじゃないしな……」

殺伐としていた四号車は、わずか一分足らずで、ひだまりの縁側のような空気に包まれてしまった。誰もがふにゃふにゃと微笑み、肩の力を抜いて揺られている。

やがて電車が駅のホームに滑り込み、ドアが開いた。

毛玉は僕の肩へと舞い戻り、満足そうに「みぃ……」と小さく息を吐いて丸くなった。周囲の乗客たちは、どこか憑き物が落ちたような穏やかな顔で、互いに「どうぞ」「お先にどうぞ」と譲り合いながら降りていく。

「……お前、一体なんなんだよ」

僕が呆然と呟くと、ポケットに戻った毛玉は、誇らしげに小さな耳をピコピコと揺らした。 月曜日の朝が、いつもよりほんの少しだけ、あたたかかった。

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