クロワッサンを食べ終えた後

朝の七時、焼き立てのバゲットが立てるパチパチという小さな音に包まれながら、麻央は硝子扉の鍵を開けた。

「ブーランジェリー・キタノ」の朝は早い。

小麦と焦がしバターの甘い香りが満ちる店内に、カラン、と控えめなドアベルが鳴る。

入ってきたのは、いつも決まって七時十五分に現れるコート姿の男性だった。

彼の注文はいつも同じだ。

「クロワッサンを一つと、カフェオレを」

低く落ち着いた声。眼鏡の奥の目元は少し眠そうで、けれどトレイを受け取るときの手つきはとても丁寧だった。

麻央は毎朝、彼が窓際のカウンター席で文庫本を開き、パリパリと繊細な音を立ててクロワッサンを食べる姿を、トングを磨くふりをしながらこっそり眺めていた。

名前も知らない。けれど、麻央にとって彼に焼きたてのパンを手渡す時間は、慌ただしい朝の中でひそかな句読点になっていた。

雨が冷たく降りしきる火曜日の朝、変化が訪れた。

その日、彼はクロワッサンを食べ終えた後も席を立たず、カップに残った冷めたコーヒーを見つめていた。トレイを返却口に運んできたとき、ふと麻央と目が合う。

「あの、すみません」

「はい、何でしょうか」

彼はポケットから一枚のショップカードを取り出した。麻央の店のカードの裏に、万年筆で丁寧な文字が走っている。

「いつも、すごく美味しいパンをありがとうございます。……もし迷惑でなければ、今度の日曜日、少しだけ時間をいただけませんか。近くの植物園の温室に、美味しい珈琲を淹れる移動カフェが来ているんです」

思いがけない言葉に、麻央の胸が跳ねた。

驚いて見つめ返すと、彼は耳の先をほんのり赤くして、少し困ったように笑った。

「毎朝、あなたの『いってらっしゃい』を聞くのが楽しみで。パンの話でも、なんでもいいので、もう少し話してみたいと思っていました。僕は、瀬尾といいます」

「……麻央です。喜んで」

思わず口をついて出た返事に、瀬尾さんの表情がぱっとほどけた。

日曜日、エプロンを外して私服で待ち合わせ場所に立った麻央は、少しそわそわしていた。

いつもはパンの粉で白くなっている指先を、何度もコートのポケットに出し入れする。

約束の五分前に駆け寄ってきた瀬尾さんは、いつものスーツ姿とは違う柔らかなニットを着ていて、麻央を見つけるとやさしく目を細めた。

「待たせてしまいましたか」

「いえ、今着いたところです」

ガラス張りの温室は、外の肌寒さが嘘のように暖かく、湿った土と緑の匂いに満ちていた。ヤシの葉が広がる木陰のベンチで、二人はテイクアウトの紙カップを並べて腰を下ろした。

「お店の外でお会いすると、なんだか不思議ですね」

「ですね。いつもカウンター越しでしたから」

瀬尾さんは建築の設計の仕事をしていること。

仕事で煮詰まった朝、たまたま立ち寄ったキタノのクロワッサンがあまりに美味しくて、それ以来通うようになったこと。

麻央もまた、早起きは大変だけれど、朝一番にふくらむ生地を見るのが大好きなのだと話した。

「麻央さんの渡してくれるパンは、いつも温かくて、一日をちゃんと始めようって思えるんです」

真っ直ぐに向けられた言葉に、麻央の頬がカスタードクリームのようにじんわりと熱を持った。

ふわりと漂うコーヒーの湯気の向こうで、瀬尾さんが悪戯っぽく笑う。

「次は、僕のお気に入りの喫茶店のトーストを食べに行きませんか。パン屋さんにパンの店を紹介するのも、おかしな話ですけど」

「ふふ、厳しく味見しちゃいますよ」

温室を出ると、見上げた空はどこまでも澄み渡っていた。

いつも通りの月曜日が、これまでよりずっと待ち遠しく感じられる日曜日だった。

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