コチッ。

木曜日の朝、洗面所の鏡を覗き込んだとき、首の左側に小さな突起があるのを見つけた。

虫刺されでも、おできでもない。爪先ほどの大きさのそれは、銀色に鈍く光るねじ巻きのつまみだった。昔のぜんまい仕掛けの柱時計や、ブリキの玩具の背中についている、あの蝶々の形をした金具である。

指先で触れると、ひやりと硬い金属の感触があった。痛みはまったくない。つまんで右回りに少しひねってみると、皮膚の奥からコチッ、と小さく乾いた歯車の噛み合う音が響いた。

それと同時に、視界の隅がぱっと鮮やかになった。洗面台の蛇口を伝う水滴の輪郭、タイルの目地に残る微かなひび割れ、換気扇のファンが空気を切る細かな振動――そのすべてが、驚くほどの解像度で脳に流れ込んできたのだ。身体が軽い。昨夜の残業の疲れなど嘘のように消え失せ、肺の奥まで澄んだ空気が満ちていく。

試しに、もう半回転ひねってみる。コチッ。

駅への道を歩くスピードは普段の倍になっていた。周囲の通勤客がまるでスローモーションの映像のように緩慢に動いている。追い抜く風が心地いい。頭の回転も異常なほど冴え渡り、午前中の会議では誰も思いつかなかった企画の欠陥を淀みなく指摘し、溜まっていた書類仕事を昼前にはすべて片付けてしまった。

「今日、なんだか妙に調子がいいですね」

同僚にそう言われ、首元をシャツの襟で隠しながら曖昧に笑った。秘密のぜんまいを手に入れたのだ。疲れたら巻けばいい。人生の停滞を、この小さな金具ひとつでいくらでも巻き戻し、加速させることができる。

だが、夕方になって異変が起きた。

デスクでキーボードを叩いている最中、急激に指先が鉛のように重くなった。視界がかすみ、頭の奥でギリギリと金属が擦れ合う嫌な音が鳴る。さっきまで冴え渡っていた思考が、急激に粘り気を帯びて停止していく。

ぜんまいが、切れたのだ。

慌てて給湯室に駆け込み、シャツのボタンを外して首の金具に指をかけた。コチ、コチ、コチ。今度は三回、力任せに巻く。たちまち活力が戻り、息を吹き返す。けれど、ぜんまいが解けるスピードは、朝よりも明らかに速くなっていた。

夜、自室に戻る頃には、十五分おきに巻かなければ立っていられないほどになっていた。巻けば動ける。だが、解けるたびに訪れる疲労は、前のそれよりも深く、重い。

真夜中、ベッドの端に腰掛け、冷たい指で首の後ろに触れた。

つまみは、もうこれ以上は回らないという固い抵抗を示している。限界まで巻き上げられた金属の軋みが、首筋の皮膚を内側から押し上げていた。

もし、これを完全に巻き切ってしまったら、どうなるのだろう。

あるいは、これ以上巻くのをやめて、完全にぜんまいが止まったとき――自分という人間は、ただの動かない肉の塊になって、部屋の隅に転がるだけなのだろうか。

部屋には、カチ、コチ、と規則正しい音だけが響いていた。それが柱時計の針の音なのか、それとも自分の胸の奥で回り続ける歯車の音なのか、もう区別がつかなかった。

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