神田の古い赤煉瓦造りのアパート

テーブルの上に置かれたICレコーダーの赤いランプが、静かに明滅していた。

喫茶店の窓の外では、九月の初めのぬるい雨がアスファルトを濡らしている。向かいに座る男――私立探偵の佐久間さんは、角砂糖をひとつ落とした珈琲をスプーンで無造作にかき混ぜながら、煙草に火をつけた。

「雑誌の企画で『変わった依頼』を探してるって? 浮気調査や人探しに飽きた読者には、ちょうどいい話があるよ」

佐久間さんは煙を天井へ逃がし、細めた目で私を見た。

その語り口は、淡々とした事実の羅列のようでいて、どこか乾いた余韻を孕んでいた。

依頼人は、七十歳を過ぎた品の良い老婦人だったという。

持参された封筒に入っていたのは、数十年前のものと思われる小さな真鍮の鍵。依頼内容は「この鍵が刺さる鍵穴を、都内で見つけてほしい」という、途方もないものだった。

「普通なら断るよ。東京中のドアや引き出しを虱潰しに試すなんて不可能だからね。でも、彼女の持ってきた手がかりがひとつだけあった。古い文庫本の余白に、鉛筆で殴り書きされた『四時の階段、赤煉瓦の影』というメモだ」

手がかりは、彼女の亡き夫が遺品の中に紛れ込ませていたものだった。

生前、口数の少なかった夫は、病床で「すまなかった、全部あそこに残してある」とだけ言い残したのだという。妻への遺言にしては、あまりに謎めいていた。

佐久間さんは聞き込みと古い都市計画の資料をあたるうちに、かつて昭和四十年代に取り壊された、神田の古い赤煉瓦造りのアパートメントに行き当たった。

現在はオフィスビルが建ち並び、当時の面影など微塵もない。

「けれどね、階段だけが残っていたんだ。ビルの谷間、私道と抜け道の境目にある、誰も気に留めない古びた非常階段の土台。そこに、昔のガスメーターを収納していた小さな鉄の点検扉が、ペンキで塗り固められたまま残っていた」

午後四時になると、隣のビルの隙間から西日が差し込み、古い階段の影がその扉をちょうど指し示すのだという。佐久間さんが錆びついた鍵穴に潤滑油を差し、真鍮の鍵を差し込むと、驚くほど滑らかにカチリと音が鳴った。

扉の奥から出てきたのは、分厚い油紙に包まれた一冊の大学ノートだった。

「何が入っていたと思います?」と、私は思わず前のめりになって尋ねた。隠し財産か、それとも誰にも言えない過去の手記か。

佐久間さんはふっと短く笑い、冷めかけた珈琲に口をつけた。

「全部、奥さんのスケッチだったよ。日向ぼっこをしている横顔、台所で葱を刻む後ろ姿、居眠りしている手元。新婚の頃から夫が病に倒れる直前まで、何百枚ものデッサンが日付とともに綴られていた。彼は照れ屋でね、面と向かって愛情を伝えるのがどうしても苦手な男だったらしい」

夫はただ、自分がどれだけ妻を見つめて生きてきたかという証を、誰にも邪魔されない場所にひっそりと仕舞い込んでいただけだったのだ。

ノートを受け取った老婦人は、泣きもせず、ただ静かにページをめくり、「あの人は本当に、昔から手のかかる人でした」とだけ言って微笑んだという。

「取材のネタとしては、派手な事件じゃなくて拍子抜けだったかい?」

そう言って煙草の火をもみ消した佐久間さんの指先には、あの錆びた扉を開けたときの小さな擦り傷が、まだ薄く残っていた。

レコーダーの停止ボタンを押したとき、外の雨はすっかり上がっていた。

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