金曜日の夕暮れ、台所からは暴力的なまでに食欲をそそるスパイスの香りが立ち込めていた。
父親である誠司が、前夜からホールスパイスを乾煎りし、玉ねぎが黒砂糖のようになるまで二時間炒めて完成させた特製チキンマサラ。大人の親指大に切った鶏肉はほろほろと崩れ、表面には真っ赤なチリオイルの膜が浮いている。
「パパ、ぼくもそれ! 黄色い甘いやつじゃなくて、パパと同じやつ!」
小学一年生の蓮が、アンパンマンの小皿を突き出して抗議の声をあげた。普段なら子供用の甘口ポークカレーで納得するはずが、今夜に限ってはやけに男の意地を見せようとしている。
「蓮、これ本当に辛いぞ。喉がカッカするやつだ」
「だいじょうぶ! ぼく、もう一年生だし、キムチのついたご飯も一粒食べられたもん!」
止める妻の静止も聞かず、蓮はスプーンを奪い取ると、誠司の皿から茶褐色に光るルーを大盛りですくい取った。そして、勝ち誇ったような笑みを浮かべ、一気に口の中へと放り込んだ。
奇跡のような沈黙が、リビングに三秒間だけ訪れた。
蓮の咀嚼がピタリと止まる。 スプーンを持った右手が、小刻みに震え始めた。 白く滑らかな頬が、まるで茹で上がったタコのように一瞬で赤黒く染まり、黒目が限界まで見開かれる。
「あ」
蓮の喉から、気管支がひきつったような乾いた音が漏れた。
「あ……あぢぃぃぃぃぃぃぃぃぃっっっ!!!」
次の瞬間、テーブルが揺れた。蓮がパイプ椅子を蹴り倒して立ち上がり、両手で口元を押さえながらリビングを猛烈なスピードで周回し始めた。ただ走るのではない。まるで足の裏に炭火を敷き詰められたかのように、膝を胸の高さまで跳ね上げる異様なステップを踏んでいる。
「水! パパ、水ぅぅぅぅ!」
「だめ、水飲んだら余計に辛さが広がる! 牛乳、冷蔵庫の牛乳持ってきて!」
「ぎゅうにゅうやだ! 舌がちぎれる! 火ぃ出てる、口から怪獣の火ぃ出てるぅぅぅ!」
叫びながら、蓮はソファへ突撃した。クッションを猛烈な勢いで顔面に押し当て、フガフガと唸り声を上げながら涎と涙を擦り付ける。それでは熱が収まらないと悟るや否や、今度は床に仰向けに倒れ込み、背泳ぎのようなフォームでフローリングを回転しながら滑り出した。
「氷! 氷舐めなさい!」
誠司が冷凍庫から飛び出してきた氷を差し出すと、蓮はそれを手で叩き落とした。もはや完全に理性を失った野生の小動物である。ダイニングテーブルの下を匍匐前進で潜り抜け、カーテンを引っ掴んでグルグル巻きになり、自らミノムシと化して絶叫した。
「パパのばかぁぁぁ! どくはいってる! これ絶対どくはいってるぅぅぅ!」
「毒じゃない! カルダモンとカイエンペッパーだ!」
「しらない! ペッパーきらいぃぃぃ!」
大暴れするミノムシの隙間から、妻が無理やりバニラアイスをスプーンでねじ込んだ。 冷たい甘みが舌に触れた瞬間、蓮のバタついていた両足がピクリと止まる。
「……ん?」
「噛まないで、舌の上で溶かしなさい」
もう一口、さらにもう一口。バニラアイスが胃に落ちていくにつれ、荒れ狂っていた暴風雨が急速に勢力を弱めていく。やがてカーテンの隙間から、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔が力なく這い出てきた。額には大粒の汗がびっしりと浮かび、呼吸はマラソンを終えた直後のように荒い。
「……パパ」
「おう」
「あしたは、アンパンマンの、あまいやつにする……」
「そうだな。そうしよう」
戦場と化したリビングの真ん中で、倒れた椅子と散らばったクッションを前に、誠司は冷めきった自分のチキンマサラを静かに口に運んだ。一口噛み締めると、頭の芯が痺れるような辛さが脳天を突き抜けた。
(……うん、これは一年生には無理だわ)