午前三時四十二分。パソコンの右下に小さく灯るデジタル時計の数字を、僕は乾ききった眼球でぼんやりと見つめていた。数字の輪郭がじわりと滲み、二重、三重に重なっていく。
眠い。
ただそれだけの四文字が、分厚い鉛の塊となって頭蓋骨の底に沈殿していた。脳の皺のひとつひとつに湿った濡れ雑巾が詰め込まれ、思考という思考がその水分を吸って重たく澱んでいる。
キーボードの上に置いた十本の指は、まるで冷水に浸けられた粘土のように硬く、自分の意志とは無関係の重力に引かれていた。あと千字。この企画書のまとめを書き上げ、クライアントの指定フォルダに放り込めば、僕の戦いは終わる。明日の朝九時には先方の担当者が確認するのだ。今夜中に終わらせなければ、ここ一週間の不眠不休の苦闘がすべて無に帰す。
「……書け、動け」
自分を鼓舞するために声を出してみたが、喉から漏れたのは乾いた空気の擦れる音だけだった。
眠気は、単なる肉体の疲労ではない。それは実体を持った、黒くて温かい生き物のようだった。背後からそっと首筋に腕を回し、耳元で「もういいだろう」と甘く囁きかけてくる。まぶたの裏側には、細かな砂粒がびっしりと敷き詰められているみたいだ。瞬きをするたびにザラリと痛むのに、一度まぶたを閉じると、二度と開かないように強力な接着剤で縫い止められそうになる。
椅子の上で体勢を変え、首をぐるりと回した。骨がゴキリと鈍い音を立てる。気休めに、冷めきって油膜の浮いたマグカップを手に取り、底に残った黒い液体を口に含んだ。かつては熱いコーヒーだったはずのそれは、今やただ苦くて酸っぱい泥水のような味しかしない。カフェインなど、とうに僕の血管の中で何の効果も持たなくなっていた。
画面の白い光が目に突き刺さる。カーソルが、一定のテンポで点滅を繰り返している。
チカ、チカ、チカ。
その規則正しい明滅を見つめていると、世界が奇妙な歪みを見せ始めた。点滅の周期に合わせて、部屋の空気が微かに波打つ。壁のカレンダーが、ゆらゆらとクラゲのように揺れている。
あ、まずい。意識が落ちかけている。
僕は慌てて首を振った。だが、現実と夢の境界線はすでに曖昧になり、溶け出していた。カーソルの黒い縦線が、やけに細長い人間の影に見えてくる。そいつが画面の中から、手招きをしているように思えた。
『少しだけ、目を閉じればいい』
部屋のどこからか、そんな幻聴が聞こえた気がした。自分の内側の声なのか、それとも夜の静寂が形を持ったのかはわからない。
『五分だけ。アラームをセットして、机に突っ伏すだけでいい。五分休めば、頭は驚くほど冴え渡る』
悪魔の誘惑だった。そんな嘘にどれだけ騙されてきたか。五分の仮眠が四時間の昏睡に変わり、絶望の朝を迎えたことが過去に何度あっただろう。今ここで額をデスクに預けたら最後、僕は泥のような深い闇の底へ引きずり込まれ、二度と這い上がってこれない。
僕は左手を伸ばし、自分の太ももを思い切りつねった。痛みが神経を駆け上がり、目の奥に火花が散る。だが、その鋭い痛みすら、押し寄せる眠気の巨大な波に触れた瞬間、あっけなく呑み込まれて消えてしまった。睡魔という巨大な鯨の胃袋の中で、感覚のすべてが消化されていく。
キーボードに指を戻した。
「課題解決に向けた、具体的アプローチとしては……」
声に出しながらキーを叩く。カタ、カタ、と乾いたプラスチックの音が静まり返った六畳間に響く。だが、画面に打ち込まれた文字を見て、僕は背筋を凍らせた。
『かだいかいけつにむけたあああああああああああああああ』
指がキーボードの「あ」の上にめり込んだまま、数秒間、完全に意識が消失していたのだ。消去キーを押し続け、歪んだ文字列を消していく。一歩、また一歩と、死神の足音が近づいてくるような恐怖。けれど、その恐怖すらも、圧倒的なまどろみの心地よさの前に霞んでしまう。
どうして人間は、寝なければ生きていけないのだろう。
なぜ生物は、一日の三分の一もの時間を、無防備で役立たずな昏睡状態に捧げなければならないのか。こんなにも世界はやるべきことで溢れていて、締め切りは容赦なく迫り、時間は砂のように指の間をこぼれ落ちていくというのに。
だが同時に、心の底の別の自分が嘲笑う。 寝るために生きているのではないか、と。あの、意識がふわりと身体から抜け出し、重力も責任も恐怖もすべてが消え失せる無の境地へと滑り落ちていく、あの至福の瞬間のために、僕らは昼間の苦痛に耐えているのではないか。
部屋の隅で、冷蔵庫のコンプレッサーが低く唸りを上げた。その単調なモーター音が、子守唄のように鼓膜を揺らす。
もう限界だった。首が頭の重さを支えきれず、ガクンと前に折れた。
顎が胸の骨に当たる。目の前が暗転する。視界の端で、机の上の蛍光灯の光が、遠ざかる電車のテールランプのように細い線になって流れていった。身体中の力が抜け、指先がキーボードから滑り落ちる。
だめだ。起きろ。あと五百字。あと少しで終わる。
頭の中で警報が鳴り響いているのに、身体はそれを遠い他国の出来事のように無視した。重力という名の巨大な手が、僕の後頭部を掴み、机の天板へとゆっくりと押し倒していく。
ひやりとした合板の冷たさが、右の頬に触れた。
その冷感が、たまらなく甘美だった。まるで灼熱の砂漠を歩き続けた旅人が、冷たいオアシスの水に顔を浸したかのような快楽。
「……五分だけ」
声にもならない呟きが、唇からこぼれた。 その瞬間、すべての抵抗が終わった。
まぶたが完全に下り、世界のスイッチが切断される。重たい鉛の思考はさらさらとした微粒子に変わり、夜の気流に乗ってどこかへ飛び去っていった。耳に届いていた時計の秒針の音も、冷蔵庫の唸りも、遠くの道路を走るトラックのロードノイズも、急速に遠ざかり、やがて完全な無音へと溶けていく。
落ちていく。深く、深く、底のない闇の井戸へ。
そこには締め切りも、企画書も、明日の朝の恐怖も何もない。ただ、果てしなく温かくて柔らかい、静寂の海があるだけだった。僕はその海に全身を委ね、沈んでいく自分を、もう引き止めることができなかった。