油の弾ける音と、客たちの小気味よい咀嚼音で満たされた店内に、その音はすっと染み込んできた。
「お忙しい時に、すみません……」
入口の自動ドアが開いた直後だった。何を言ったのか、言葉の細部までは聴き取れなかった。けれど、その響きだけで箸が止まった。
低く、深く、それでいて耳の奥に不思議なほどくっきりと輪郭を残す声。
騒がしい中華料理屋の雑踏を濁流とするなら、その声は川底を滑るように届いてくる冷たい伏流水のようだった。
決して声を張り上げているわけではないのに、空間の密度をそこだけ変えてしまうような、天性の引力。
(……いい声だな)
思わず口の中の茄子を飲み込み、視線だけを入口へと向けた。
声優だろうか。もしマイクの前に立てば、それだけで冷徹な黒幕にも、静かに夜を語るナレーターにもなれそうな、確かな需要を感じさせる声質だった。
しかし、その男は他の客のように空いた席を探そうとはしなかった。
混み合う店内で、入口の脇に背筋を伸ばして立ったまま、店員の手が空くのを静かに待っている。
食事を再開しつつ、会計のタイミングでチラリと男の胸元や手元を盗み見た。
手にしていたのはメニューではなく、使い込まれた細身の取材ノートと腕章。
どこかの新聞か、情報誌の記者らしかった。
なるほど、取材の挨拶に来たのかと腑に落ちると同時に、あの声の説得力なら相手も自然と口を割ってしまうだろうな、と妙に納得してしまった。
店を出て、通りを歩きながら、さっきの男の「お忙しい時に、すみません」を頭の中で反芻してみる。
声ひとつで、見知らぬ他人の意識をここまで奪うことができる。
身体の奥から出る音だけで、世界の空気を塗り替えてしまえる。
小さく息を吸い、胸の底に響かせるイメージで、誰にも聞こえないほど低く呟いてみた。
「……すみません」
吐き出した自分の声は、まだ頼りなく秋風に散っていった。
けれど、胸の奥には確かに、声優という表現の世界へ足を踏み出してみたいという、小さな熱が灯っていた。