マスター、普通のを一杯

駅前の路地裏にある喫茶店「カトレア」のカウンターで、小林は毎朝同じ注文をしていた。

「マスター、普通のを一杯」

白髪交じりのマスターは短く頷き、決まって三分後に湯気の立つ白磁のカップを差し出す。熱すぎず温すぎず、苦味と酸味がほどよく調和した、まさに小林にとっての「普通のコーヒー」だった。これを飲み干してネクタイを締め直すのが、彼の十年変わらない出勤の儀式である。

肌寒い雨が降る火曜日の朝、ふとした疑問が小林の口をついて出た。

「なあマスター、この店で『普通のを』って頼む客、他にもいるのかい?」

マスターは布巾でグラスを磨きながら、穏やかな声で返した。

「ええ、ほとんどのお客様がそう仰いますよ」

「へえ、じゃあみんな毎朝、俺と同じこのブレンドを飲んで仕事に向かってるわけだ」

「いいえ」とマスターは静かに首を振った。「あちらの席の青年が出勤前に頼む『普通』は、砂糖を二杯入れたアメリカンです。窓際の常連さんが言う『普通』は、舌が痺れるほど苦いエスプレッソのダブルですよ」

小林は目を丸くし、手元のカップを見つめた。

「じゃあ、俺に出しているこれは何なんだ?」

「小林様が十年前に初めていらした朝、雨に濡れて疲れた顔で『なんでもいい、普通のやつを頼む』と仰ったでしょう。あのとき、少しの苦味で目を覚まし、柔らかな香りで肩の力を抜いてほしくて淹れた配合です。それが、私から見たあなたの『普通』でした」

カップの底に残った黒い液面を覗き込むと、自分の顔がおぼろげに映っていた。自分が無意識に求めていた輪郭を、他人の手によって十年間も整えてもらっていたのだと気づく。

「……なるほどな。じゃあマスター、もし明日俺が『普通じゃないやつ』を頼んだらどうなるんだ?」

小林が笑い混じりに尋ねると、マスターは悪戯っぽく口元を緩めた。

「その時は、壁に貼ってある通りの正規料金をいただきますよ。お客様ごとの『普通』をお出しするのは、私の勝手な趣味ですから」

小林は声を出して笑い、いつもの小銭をカウンターに置いた。店を出ると雨は上がり、雲の切れ間から覗く朝の光が、どこまでも普通に街を照らしていた。

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