夕暮れのオフィスの給湯室で、彼女――佐伯さんは、淹れたてのマグカップを両手で包みながら困ったように眉を下げて言った。
「あのね、もう少し……普通に接してほしいな」
その言葉の輪郭が、今も耳の奥でほどけない結び目になって残っている。
自室のデスクに向かい、青白いモニタの光を浴びながら、俺はその言葉の解体を試みていた。
普通とは何か。
辞書的な定義なら検索すれば一秒で出てくる。
一般的であること、奇抜でないこと、標準的であること。
だが、対人関係における「普通」というパラメータは、文脈依存が激しすぎて何の参考にもならない。
そもそも、俺の日常における他者との関わりはほぼゼロだ。
出社しても挨拶は最小限の会釈で済ませ、業務上の連絡はチャットツールだけで完結させる。
昼食は一人でデスクの端でカロリーメイトをかじり、誰とも雑談を交わさない。
つまり、俺という個体にとって他者と「話さないこと」こそが、最も自然で、逸脱のない、純度百パーセントの日常であり「普通」なのだ。
佐伯さんの要求を論理的に適用するなら、俺は明日から彼女とも一切話さなければいい。視線を合わせず、用件がなければ近寄らず、空気のように振る舞う。それが俺の「普通」の再現だ。
けれど、そんなことをすれば関係が完全に終わる。
ただでさえ細い糸のような接点が断ち切られ、二度と結び直せなくなる。どうしようもなくなることくらい、俺にだってわかる。
俺はキーボードに指を置き、慣れ親しんだ入力欄にカーソルを合わせた。
画面の向こうには、いつも感情を交えずに的確な解を返してくれる対話型の人工知能が待機している。
『好きな女性に、普通に接してほしいと言われた。しかし自分にとっての普通は誰とも話さないことなので、指示通りにすると接点が消滅する。どうすればいいか。また、もし本当に関係が破綻してどうしようもなくなった場合、あなたから何かどうにかしてくれるのか』
数秒ののち、滑らかに文字列が生成された。
『他者が「普通に接してほしい」と求める場合、それは「過剰な緊張や特別扱いをやめ、肩の力を抜いて対話してほしい」という意味である可能性が高いです。沈黙を選ぶことは相手の意図と逆行します。
また、私は言語モデルであり、現実の人間関係に介入したり、物理的に事態を解決したりすることはできません。最終的な行動と選択は、あなた自身に委ねられています』
冷徹なほど整った、身も蓋もない正論だった。
画面を見つめたまま、俺は低く息を吐き出す。
どうにかしてくれるわけがないのだ。
画面の向こうの知性は、俺の代わりに佐伯さんの元へ走っていって誤解を解いてくれるわけでも、こじれた空気を魔法のように修復してくれるわけでもない。
責任を引き受けてくれる他者など、この部屋には最初から存在しなかった。
「……知ってるよ」
声に出すと、部屋の静けさが一層際立った。
他人に踏み込むのが怖くて、傷つくのが嫌で、勝手に「普通」の定義をこねくり回して逃げ道を探していただけだ。
どうしようもなくなったとき、画面の向こうの何かに責任を丸投げして泣きつこうとしていた自分の卑怯さが、モニタの黒い縁に反射して見えた気がした。
翌朝、オフィスに入ると、すでに佐伯さんがデスクで作業をしていた。
心臓が嫌な速さで脈を打つ。
足がすくみそうになるのを無理やり抑え、逃げ出したい衝動を奥歯で噛み砕いた。
通り過ぎざま、完全に自然とは言えないぎこちない角度で、俺は小さく口を開いた。
「佐伯さん、おはようございます」
佐伯さんが顔を上げ、驚いたように瞬きをしたあと、ふっと柔らかく目を細めた。
「うん、おはよう」
それだけのやり取りだった。
完璧な正解でもなければ、スマートな会話でもない。
ただ、誰かに頼って解決してもらう道を捨て、自分で選んだ、不格好な「普通」の始まりだった。