深夜のコインランドリーは、昼間とは違う時間が流れている。
回転するドラムをぼんやりと眺めていた僕の隣に、トレンチコートを着た見知らぬ男が腰を下ろした。手ぶらだった。洗濯物を抱えている様子もない。
「ここはいいですね」男は低い声で言った。「回っているのを見ているだけで、余計なものが洗い流されていく気がする」
「ええ、まあ」
適当に相槌を打つと、男は内ポケットから小さな黒いスプレーボトルを取り出した。香水の試供品のような小瓶だ。
「これ、ご存じですか。『記憶の漂白剤』と言うんです」
「は?」
「誰にでも消したい記憶の一つや二つはあるでしょう。失言、失恋、取り返しのつかない過ち。これを頭皮にワンプッシュするだけで、一番直近の恥ずかしい記憶が、まるで醤油の染み抜きみたいに綺麗さっぱり消えるんですよ」
男は悪戯っぽく笑い、キャップを外した。冗談にしては妙に真に迫っている。僕は薄気味悪くなって身を引いた。
「結構です。オカルトや怪しいセールスには興味がありません」
「おや、信じていませんね? なら、私が実演してみせましょう」
男はボトルのノズルを自分のつむじに向け、躊躇なくプシュッと吹きかけた。細かな霧がふわりと舞い、石鹸のような爽やかな香りが鼻をかすめる。
直後、男はぽかんとした顔で天井を見上げ、それから自分の手元にあるボトルを見て首を傾げた。
「……あれ? 私はここで、何をしていたんでしたっけ」
「えっ」
「確か、誰かに何かを売り込もうとしていたような……いや、何を売ろうとしていたのかも思い出せないな」
男は困惑したように頭を掻き、ベンチから立ち上がった。そして「お邪魔しました」と小さく頭を下げ、夜の闇の中へスタスタと歩き去っていった。ベンチの上には、置き忘れられたあの小瓶が一つだけ残されていた。
僕は息を呑み、震える手でその瓶を拾い上げた。
本当に消えたのだ。あいつは自分が怪しいセールストークをしたという記憶を失った。ということは、この液体は本物だ。
僕は胸の高鳴りを抑えられなかった。消したい記憶なら、山ほどある。昨夜、泥酔して意中の女性に送ってしまった長文のメッセージ。思い出すだけで耳まで熱くなり、頭を抱えてのたうち回りたくなるあの醜態。あれさえ消せれば、明日からどれほど晴れやかに生きていけるだろう。
僕は迷わずボトルのノズルを自らの頭に向けた。
躊躇う理由などない。指に力を込め、勢いよくワンプッシュした。
シュッ、と冷たい霧が頭皮を濡らし、ラベンダーと石鹸が混ざった清潔な匂いが広がった。
一瞬、目の前が真っ白になった。
……頭の中がひどくすっきりしている。重苦しかった胸の痞えが消え、視界が開けたような爽快感があった。成功だ。嫌な記憶は跡形もなく消え去った。
僕は安堵のため息をつき、ポケットに手を突っ込んで立ち上がろうとした。
そこで、ふと足が止まった。
「……ところで」
僕は何に怯えていたのだろう。何を後悔して、何を恥じていたのか。どれだけ記憶の糸を手繰り寄せようとしても、そこにはぽっかりと清潔な空白があるだけだった。
原因が分からないのに、心臓だけがなぜか激しく警鐘を鳴らしている。何かとんでもない失敗をしたという事実の「影」だけが、真っ白な頭の中に居座っていた。そして何より――僕が誰に対してどんな失態を演じたのかが分からないせいで、明日、誰にどんな顔をして会えばいいのかすら、分からなくなってしまったのだ。
ガラガラと回る洗濯槽の中で、僕の日常が音を立てて絡まり合っていた。