ステータス10の住人
午前七時、柔らかな朝の光がレースのカーテンを透かして寝室を満たす。
スマートフォンが心地よいアコースティックギターの音色を奏で、ベッドから身を起こす。不快な目覚ましのアラームに怯える朝など、いつの頃からか記憶にない。カーテンを開ければ、抜けるような青空と街路樹の鮮やかな緑が視界いっぱいに広がる。
画面を覗き込むと、すでに通知がいくつか届いていた。
昨夜のディナーの写真を添えたグループチャットには「次はあそこのワインバー行こうよ!」という明るい返信が並び、カレンダーアプリは昼過ぎからの予定を色鮮やかに埋め尽くしている。
世間には、現実世界の充実度を測る物差しがあるという。満たされない底辺から、あがく者、中途半端な日常に甘んじる者、そしてあと一歩のところで孤独を選ぶ者。
もしその尺度の頂点があるのだとすれば、俺の立ち位置は間違いなくそこにある。
Ria10。
何ひとつとして欠けていない、完全無欠の現実。それが、俺の生きている世界のすべてだった。
ノイズのない世界
軽いジョギングを終えてシャワーを浴び、丁寧に淹れたハンドドリップのコーヒーを口に含む。柑橘のような爽やかな酸味と香ばしさが喉を潤していく。
身につけるシャツはシワひとつなく、選ぶ靴は履き慣れた革靴。鏡に映る自分を見つめても、そこに迷いや焦燥の影は見当たらない。
部屋を出て、駅へと続く遊歩道を歩き出す。
擦れ違う人々が、ふとこちらに視線を向け、柔らかく会釈を返してくる。近所のカフェの店員、犬の散歩をする初老の男性、週末のランナーたち。世界は俺に対して常に友好的であり、俺もまたこの世界に対して開かれている。
かつて誰かが言っていた。「思い出の地」に縛られ、「記憶の傷」に足をとられながら夜道を歩く者がいるのだと。あるいは、周囲のまばゆい笑い声に苛立ち、ニンニクの匂いと胃の重さを鎧にして、孤独な城へと逃げ帰る者がいるのだと。
だが、俺の歩く道にそんな湿り気のある過去は転がっていない。
過去はすべて、今の自分を形作るための心地よい足跡に過ぎない。失敗すらも、次の会話を弾ませるための軽やかなエピソードとして消化され、誰かを傷つけることも、自分を呪うこともない。
世界は美しく、調和に満ち、そして何より心地いい。
満たされた祝祭の只中で
午後、賑わうテラス席のカフェに足を踏み入れると、ガラス越しに手を振る仲間たちの姿が見えた。
「お待たせ。いい天気になったね」
席に着いた瞬間、自然な笑い声が弾け、会話のパスが淀みなく行き交う。仕事の近況、新しく始めた趣味の話、来月予定している小旅行のプラン。誰も他人の足を引っ張ろうとはせず、誰も自分の劣等感を隠すために虚勢を張ることもない。
運ばれてきたクラフトビールを掲げ、グラスが澄んだ音を立ててぶつかり合う。
「乾杯!」
喉を滑り落ちる黄金の液体。隣で笑う恋人が、そっと肩を寄せてくる。その体温の確かさに、胸の奥がじんわりと温かくなる。誰かに認められたいという承認欲求も、何者かにならなければならないという強迫観念も、この満ち足りた空気の中には存在しない。
ここにあるのは、純度百パーセントの「今、ここ」という現実だけだ。
ふと、テラス席の向こう、雑踏を早足ですり抜けていく男の背中が目に入った。
俯き加減で、何かを必死に拒絶するように、あるいは何かから逃れるように、群衆の間を切り裂いていく孤独なシルエット。何かを激しく渇望しているような、飢えた獣の気配。
「どうしたの?」
恋人が俺の視線を追って首を傾げる。
「いや、なんでもないよ」
俺は穏やかに微笑み、グラスを置いた。あのような生き方を否定するつもりはない。だが、なぜそこまでして自分を追い込み、何かに抗い続けなければならないのか、俺には想像もつかなかった。
目の前には、愛すべき人々がいる。美味い酒がある。温かい日差しがある。 これ以上の何を、人は求めるというのだろう。
白紙のノート
夜、穏やかな宴がお開きとなり、静かな余韻を連れて自宅へ戻った。
部屋に入り、柔らかな間接照明を灯す。冷たい静寂ではない。今日も一日を完璧に生き切ったという充足感が、部屋の隅々にまで満ちていた。
ふと、書斎のデスクの上に置いてある一冊のノートが目に入った。
上質な革で装丁された、真っ白なノート。万年筆を手に取り、椅子に腰掛けてページを開いてみる。
何かを書いてみようと思った。今日感じたこと、心を動かされた景色、あるいは頭の中に浮かぶ壮大な物語。
しかし、ペン先は紙のミリ手前で静止したまま、一ミリも動かなかった。
書くべき言葉が、何ひとつとして浮かんでこないのだ。
不満がないから、告発する言葉がない。 孤独を知らないから、寄り添うべき誰かの痛みがわからない。 世界から完璧に愛されているから、新しい別の世界をゼロから創造する必要性を、魂がまったく感じていない。
物語とは、現実に対する不服従の申し立てだ。満たされない渇き、手の届かない憧憬、噛み合わない歯車が生み出す軋み――そうした「欠陥」からしか、劇的な言葉は生まれない。
すべてが満ち足りたRia10の場所には、言葉を紡ぐための「飢え」が存在しなかった。
完璧という名の平穏
俺は静かに万年筆を置き、ノートを閉じた。
胸に走ったのは、焦りでも絶望でもない。ただの、澄み切った納得だった。
物語を生み出すことなどできなくていい。虚構の海に溺れ、身を削りながら言葉を搾り出す役目は、あの境界線で飢えに震えている者たちに譲ればいい。
俺の役割は、この現実を十全に愛し、愛され、明日という日を曇りのない笑顔で迎えることだ。
ベッドサイドのランプを落とし、柔らかなシーツの中に体を滑り込ませる。
スマートフォンの画面が一度だけ点滅し、「おやすみ」という短いメッセージが届いた。優しく返信を打ち終え、目を閉じる。
満ち足りた暗闇の中、深い呼吸とともに眠りへと落ちていく。
明日の朝もまた、世界は俺を優しく迎えてくれるはずだ。何ひとつ欠けることのない、完璧な10の現実の中で。