アパートの更新を機に、僕はある奇妙な賃貸物件に引っ越した。
駅徒歩三分、南向き、築浅のワンルーム。家賃は周辺相場の三分の一。事故物件でもないその部屋の契約書には、ただ一つだけ奇妙な特約条項が記されていた。
『室内にある「余白」の取扱いに同意すること』
内見のとき、不動産屋の男は部屋の隅を指差して淡々と言った。 「あそこです」
六畳間の北西の角、畳一畳分ほどのスペースだけ、床のフローリングが途切れ、真っ白なペンキを塗ったような「何もない空間」になっていた。影すら落ちない、奇妙な純白。
「これは『空間の余白』と呼ばれていましてね。世界を構築した際、割り当ての計算が余ってしまった切れ端なんです。物を置くことはできませんが、それ以外は普通の部屋と変わりませんよ」
男はそう言って鍵を寄越した。家賃の安さに目が眩んだ僕は、迷わずサインした。
暮らし始めてみると、確かに生活に支障はなかった。白い余白の上にうっかりスマホやマグカップを置こうとすると、見えない壁に押し返されるようにツルリと弾かれて床に転がる。それだけの話だ。
変化が起きたのは、引っ越して一ヶ月が過ぎた頃だった。
ある夜、ベッドで本を読んでいると、部屋の隅から「ピト……ピト……」と水滴の落ちるような音がした。
見れば、あの白い余白の中央に、黒いインクを落としたような小さな点ができていた。点は見る見るうちに細い線へと伸び、十文字に交差したかと思うと、一本の整った「手」の形をなした。
落書きが立体化したような、二次元の黒い腕だ。それが余白の床からにゅっと伸びて、宙をまさぐっている。
「うわっ!」
飛び起きた僕をよそに、腕はパタパタと畳を叩き、続いて肩が、頭が、胴体が、白い余白から這い出してきた。現れたのは、真っ黒なインクの線だけで描かれた、影絵のような小男だった。
小男は部屋を見回し、僕と目が合うと、ペコリと頭を下げた。声は出ないらしい。
『ここはどこですか?』
男が懐から取り出した小さなスケッチブックに、炭のような文字がさらさらと浮かび上がった。
「僕のアパートの部屋だけど……君は誰だ?」
男は再び文字を走らせた。 『私は、ある作家のボツ原稿から零れ落ちた者です。物語の展開上、不要だと判断されて消去されたのですが、世界の隙間を漂っていたら、この白い場所に辿り着きました』
余白とは、捨てられた存在の避難所だったらしい。男は悪意を持つ様子もなく、ただ居場所を求めて震えていた。情が湧いた僕は、「音を立てないなら、そこにいてもいいよ」と告げた。男は深々と頭を下げ、余白の隅に体育座りをして静かに丸くなった。
それからというもの、余白には夜な夜な珍客が訪れるようになった。
消しゴムで消された設計図のネジ、言おうとして飲み込んだ誰かの告白の言葉、ボツになった流行語、使われなかった舞台の大道具の切れ端。世界から「不採用」を言い渡された無数の欠片たちが、白い四角の上に転がり込んできた。
僕の六畳間は、次第に奇妙な賑わいを見せ始めた。ネジは床を転がり、告白の言葉は淡い光の粒となって天井を漂い、小男は時折スケッチブックで僕に他愛のない冗談を伝えてくる。孤独だった僕の夜は、どこか温かいものへと変わっていった。
だが、ある朝のことだ。
出勤しようと玄関のドアノブに手をかけた瞬間、指先がツルリと滑った。 ドアが開かないのではない。ドアノブを掴むことすらできないのだ。まるで、見えない壁に弾かれるように。
違和感を覚えて自分の足元を見下ろした僕は、息を呑んだ。
床のフローリングが、消えていた。 玄関のタタキも、靴箱も、壁紙も。すべてが境界を失い、あのツルツルとした、影の落ちない純白に染まりつつあった。
部屋の隅にいた黒い小男が、申し訳なさそうにスケッチブックを掲げた。
『すみません。この部屋が、世界にとって本当に必要かどうか、上のほうで再計算が始まってしまったみたいです』
僕の足首が、ふわりと軽くなった。 見下ろすと、僕の身体から色が抜け落ち、輪郭がインクの線のように薄れ始めていた。