祖父の遺品整理で見つかった桐の小箱には、手のひらに収まるほどの奇妙な塊がひとつだけ入っていた。
それは石のようでもあり、乾いた木の根のようでもあり、あるいは何かの動物の骨片のようでもあった。
表面は黒ずんで滑らかに磨耗しているが、一部には乾いた鱗のような細かな凹凸がある。重さは見た目よりもずっと軽く、鼻を近づけると、古い潮風の匂いと、雨上がりの湿った腐葉土の匂いが同時に漂ってきた。
同封されていた黄ばんだ紙切れには、祖父の几帳面な悪筆でただ一言、こう記されていた。
『海のものとも山のものとも』
骨董品屋を営んでいた祖父は、真贋の怪しいガラクタばかりを好んで集める風変わりな男だった。
晩年は「世の中のものはすべて名前がついた途端につまらなくなる」と嘯き、鑑定依頼で持ち込まれた名品をそっちのけで、道端で拾った正体不明の漂着物ばかりを磨いていたという。
俺はその塊をポケットに突っ込み、町へ出た。鑑定してもらおうと考えたわけではない。ただ、その得体の知れなさを手の中で転がしている感触が、奇妙に指先に馴染んだからだ。
駅前の喫茶店に入り、窓際の席に腰を下ろす。四角いプラスチックのトレイの上に、手元から取り出したその塊をコトリと置いた。
通りを歩く人々は皆、何者かであることの証明を身に纏って急ぎ足で行き交っている。
スーツを着た会社員、制服の学生、エプロンをつけた配達員。誰もが社会という大きな台帳のどこかに明確に分類され、自分という輪郭を保つために必死になっているように見えた。
俺自身もそうだった。
就職活動が難航し、卒業を間近に控えた今もなお、自分の肩書きを空白のまま残している。
親や友人からは「何者になるつもりなのか」「早く身の振り方を決めろ」と問われ続けていた。何者かにならなければ、この社会では呼吸すら許されないかのように感じていた。
「それ、面白い形をしていますね」
ふいに声をかけられ、顔を上げた。
注文したブレンドコーヒーを運んできた初老のマスターが、テーブルの上の塊を興味深そうに見つめていた。
「祖父の遺品なんです。何なのか、まるでわからなくて」
俺が言うと、マスターは白髪交じりの眉を緩め、柔らかな笑みを浮かべた。
「海の底深くで千年眠っていた化石かもしれないし、険しい深山の樹洞で風雪に耐えた神木のかけらかもしれない。あるいは、ただの樹脂の塊かもしれない。……でも、正体がわからないままでいる間だけは、その石は海のすべてでもあり、山のすべてでもあるんでしょうね」
マスターはそれ以上詮索することなく、トレイを引いてカウンターの奥へと戻っていった。
冷めかけのコーヒーを啜りながら、俺は再びその塊を指先でなぞった。
海のものか、山のものか。
白か、黒か。
成功か、失敗か。
世界はあまりにも性急に答えを求め、あらゆるものに札を貼りたがる。
けれど、祖父が最後まで大切に抱え込んでいたのは、どの棚にも収まらない、名付けようのないこの曖昧さそのものだったのではないか。
手の中に収めると、体温が移った塊はほんのりと温かくなった。
俺は何者でもない。
これからの人生が海へ向かうのか、山へ向かうのか、それすら自分では決めかねている。
だが、何者でもないということは、まだ何にでもなり得る余白が残されているということでもあるはずだ。
俺は塊をしっかりと握り締め、上着のポケットの奥深くへと戻した。