満員電車の網棚に、忘れ物があった。
革張りの古いボストンバッグや、濡れたビニール傘ではない。そこに置かれていたのは、陶器でできた白いスープ皿だった。
深さのある皿の中には、なみなみと澄んだコンソメ色のスープが張られ、刻んだパセリが三粒、表面を漂っている。急停車しても、ポイントを通過して車体が大きく揺れても、不思議なことに液面は微動だにせず、一滴たりとも零れ落ちる気配がなかった。
つり革に掴まりながら、乗客たちはみな横目でその皿を見ていた。
誰かが悪戯で置いたのか。それとも、食品サンプルの類だろうか。だが、換気扇の風に乗って、ふわりと玉ねぎと牛骨を煮込んだ甘く香ばしい匂いが漂ってくる。本物の、出来立ての温かいスープだった。
やがて終点の駅に着き、乗客が潮が引くように降りていく中、私だけが席を立てずにいた。見過ごせなかったのだ。揺れる車内で、その皿だけが奇妙な静けさを保ち、私をじっと見つめているような気がした。
私は網棚に手を伸ばし、皿の縁を掴んだ。
指先に伝わってきたのは、陶器の滑らかな肌触りと、人肌よりも少し高い、心地のいいぬくもりだった。慎重に胸元へ下ろしてみても、やはりスープは揺れない。パセリの葉が、まるで琥珀の中に閉じ込められた化石のように、完璧な静止を保っている。
改札を出て、アパートへの夜道を歩きながら、私は片手に皿を掲げていた。通り過ぎる人々が訝しげな視線を投げてくるが、気にならなかった。冷え込む夜風の中で、皿の底から手のひらへじんわりと伝わる熱が、ひどく愛おしく思えたからだ。
部屋に戻り、小さな食卓の真ん中にその皿を置いた。
蛍光灯の白い光を浴びて、琥珀色の液体がきらきらと輝いている。スプーンを引き出しから取り出し、そっと表面に差し入れてみた。すんなりと金属の刃先が沈む。冷めないスープ。零れないスープ。
すくい上げて、口に運んだ。
舌の上に広がったのは、かつて確かに知っていたはずの、けれど記憶の底に埋もれていた味だった。小学校の冬の土曜日、ストーブの上で母が煮込んでいた鍋の匂い。雪の日にかじかんだ手で食べた、あの日の夕餉の味。喉を通るたびに、胸の奥の冷え切っていた芯が、カチリと音を立ててほどけていく。
一口、また一口とすするごとに、不思議と皿の中身は減っていった。
最後のパセリの一粒まで飲み干したとき、白い皿の底に、鉛筆で書いたような細い文字が焼き付けられているのが見えた。
『明日の朝、七時三分の電車へお戻しください』
翌朝、私は少し早起きをして、綺麗に洗った空っぽの白い皿を抱えて駅へ向かった。七時三分発の快速電車に乗り込み、背伸びをして網棚の隅にそっと皿を押し上げる。
手を離した瞬間、空だったはずの白い皿の底から、ことことと淡い湯気が立ち上り始めた。澄んだコンソメスープが泉のように湧き上がり、あっという間に縁のすれすれまで満たされていく。
プシュー、とドアが閉まる。
つり革を掴んだ見知らぬ誰かが、怪訝そうに網棚を見上げた。その鼻腔を、甘く香ばしい匂いがくすぐったのが分かった。私は小さく息を吐き、次の駅で降りる準備を始めた。